結局、パタリロとぼくが落ち着いたのは、雨が大降りになる直前、件のレストランからそう遠くない公園にある電話ボックスだった。携帯電話の普及した昨今、犯罪の温床になり易く、テロの標的にもされがちな、この狭い密室を出来る得る限り減らしたい、とバンコランが言っていたのはいつのことだったか。彼の指示、というわけでもないだろうが、ここ一年でロンドン市内の電話ボックスは驚くほど減った。もしも、ぼくがまだダイヤモンド輸出機構の死神をやっていたら、仕事が少しやりにくくなるなと感じただろう。無論。ロンドン以外の主要都市においても、現状は同様。商売あがったりだよ、と伯爵にうそぶいただろうか。伯爵はきっと取り合わないだろうけれど。
この公園は週に一、二度フィガロを連れて散歩に来るので、電話ボックスが残っていることを記憶していた。子供や老人が多く訪れる場所なので、緊急の場合に備えて置いてあるのだろう。公園の手入れに雇われているのだろうご老人が掃除をしているのを見かけるし、中もそう汚くはないだろうと想像できたので選んだのだ。
「どこかで雨宿りしてこい、後でまた呼ぶ」
と、パタリロが告げると、流星号はひゅうんと飛び去った。去る間際、パタリロの言葉に頷いているようにに見えたのはきっと錯覚だろうが、全く利口で便利な乗り物だ。パタリロが創造主であることと、屋根のないことを除けば、完璧なのではと思える。
「屋根を付けると速度が出ないんだ」
ぼくの思考を読んだかのように、パタリロがぼやく。
「どうして?自動車だって飛行機だって屋根があるのに」
「わからん。しかしどう計算しても、屋根を付けると50パーセント程度の速度しか出んのだ。全く、不思議なもんだ」
不思議って、自分で作っておきながら。
でも、そういうこともあるかもしれない。パタリロは、おかしな所が多いし、まだ十歳だけど、ある意味確かに天才だ。作り手である自分自身をも振り回すほどのものを作ってしまうことだって、あるかもしれない。いや、今までだってパタリロの作ったおかしな発明品に、ぼくやバンコランやタマネギたちはさんざん振り回されて来たじゃないか。
「神様も、そう思うのかな」
「神様?」
「ぼくらのこと、理解出来ない不可思議な奴らだって思うのかなって」
「お前、信じているのか?」
パタリロがきょとんと問い返す。
「何を?」
「神の存在をだ」
「・・・信じてない」
自分でそう答えて笑えた。そうだ。ぼくは神の存在なんて信じていない。神様なんていてたまるか、とさえ思ったこともある。それなのに、神の心情を気にするだなんて。
「おかしいね」
「全くだ」
しかしまあ、とパタリロは続ける。雨にけぶった街灯が薄く照らすつぶれアンマンそっくりな横顔は、妙に真剣味を帯びている。
「お前の所の、あの奇妙な赤ん坊の例もあるからな。天界や天使や神は、実在するのかもしれん。ぼくらが一般的に持っている概念通りではないかもしれないが。・・・もし神が存在してお前を見ているとしたら、確かに不思議と思うかもしれないな」
自分たちで勝手に知恵をつけ、愛し合い、殺し合い、それでも慈しみ合いたくてもがいている。生まれて、死んで、また生まれて、もう何十年も何百年も何千年も、同じ事の繰り返し。バンコランが繰り返す浮気も、ぼくの嫉妬ややきもちや不安も、ぼくらだけのものと思い込みがちだけれど、きっとそうじゃない。人間という種類の愚かな生き物の歴史の中で、何回も、何百回も、何万回も、それこそ数え切れないほどに繰り返されている出来事に違いないのだ。まあ、その中でも彼の浮気は多い方だと思うけれど。
もし神様がいたら、ぼくのじたばたぶりを見て、少しは笑ったり可哀相にと思ってくれたりするんだろうか。
黙ってしまったぼくを見上げていたパタリロが、電話ボックスの扉を少し開いた。湿ってはいるけれど、冷たくて心地の良い空気が入ってくる。空気が籠もっていたことに気づく。決して体格のいい訳じゃないパタリロとぼくでも、この空間に二人は決して広くはない。
「雨が収まってきたな」
「・・・そうだね。通り雨だったのかな」
「そろそろ、迎えがくるんじゃないのか?」
「うん、多分」
店を飛び出してもうじき一時間が経つ。大降りの雨に阻まれただろう事を考慮に入れても、バンコランがここを見つけるまでに、そう長い時間はかからないだろう。
「家に、帰るのか?」
「・・・家って、何だと思う?」
「何だ、今日は哲学の日か?」
パタリロが嫌そうな顔をする。小銭大好き、金儲け第一主義の彼は、観念的な、現実のお金と直結しない話は好きじゃない。
「そういう訳じゃないんだけど、何だか朝から考え込んじゃって」
ぼくは小さい頃に家を失って、長く安住の地を、home≠持たなかった。だからこそ、バンコランと共にいられるあの家が大切で大切で仕方無く、いつ失うか怖くてしかたない。いつもいつも、ここはぼくの家なのだ、ここにいることを許され、求められているのだと確かめ証を求めずにはいられない。でも、ふと考える。ぼくが必死で守ろう、確保しようとしている家≠ニはhome≠ニは一体何なのか。眠るための安全な箱? ただそれだけ?
「家なんてどこでもいいじゃないか。ぼくはどこでだって安心して眠ることが出来て食事が十分にとれればそれで言い。無論、家賃はただに限るが」
思わず笑ってしまうほど、全くもってパタリロらしい答えが返ってきた。
確かに、彼にとって家≠ニはそうしたものなのだろう。たまにぼくらの家にやってきても、まるで我が家のように寛いでいる。彼にとっては、衣食住が満たされていれば十分に、自分の居場所たるのだろう。
じゃあ、ぼくは?
ぼくにとっての家≠ヘ?
両親が亡くなった後放り込まれた寄宿学校でも、伯爵の館でも、衣食住に困ることはなかった。それでも、満たされることも安心することも出来なかった。館でのごく一時期を除いては。
一時期。
その一時期は何?
まだ幼くラーケンに愛されていると信じ込んでいた、ごく短い時期。あの時だけは、あの館が、伯爵の側が安心できる自分の居場所だと感じられた。いや、むしろ場所はどこでも良かった。あの人の側にいられれば、そこがぼくのhome≠セった。
そこまで考えて、なんだ、今の自分とそう変わらないじゃないかと思い至る。勿論、ぼくはもうあのときとは違う。でも、性質というのは簡単には変えられないものらしい。好きな人に、恋する人に全てを捧げきってしまう性質のぼくにとって、家≠ニはすなわち、その人のいるところなのだ。つまり、今のぼくはバンコランさえいれば、北極だろうがアフリカだろうがベトナムだろうが日本だろうが、高級住宅地だろうが下町だろうが一軒家だろうが高層マンションだろうが、すなわちそこが自分のhome≠ネのだ。バンコランが、ベトナムやアフリカや下町に住むとは思えないけれど。彼には、このロンドンのあのマンションの部屋が一番よく似合う。
「帰るのか?」
パタリロがもう一度問う。
「・・・多分ね。ついてくる? セールスの途中だろ?」
「さすがに今日はよそう。相談料代わりにバンコランにねだっておいてくれて良いぞ」
確かに、今回はパタリロに助けられた気もする。早々に恩を返しておかないと、あとでどんな無理難題をふっかけられるか分からない。
「考えても良いけど・・・やっぱり高いよ」
痴話喧嘩の和解の品にしては、値が張りすぎる。
「三割引ならどうだ」
ここぞとばかりに畳みかけてきたパタリロに、まだ押せそうだと踏む。
「三割でも高いよ。五割引は?」
「さすがに無理だ、三割五分」
「四割八分」
「四割」
「四割八分だって。これ以上は無理だよ」
「・・・四割六分はどうだ」
「もう一声」
「四割六分五厘。ここまでだ」
「考えとくよ」
ほぼ半額を引き出して、手打ちにしておいた。